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2016.10.28

ヤノベケンジさんに聞いた、「今年2016年と、これまで7年間のおおさかカンヴァス」

10月21日、「おおさかカンヴァス2016」開催前日、審査員かつ美術作家のヤノベケンジさんをお招きし、展示が完成したばかりの6作品について、講評会を開催。各作品についてコメントやアドバイスをいただきました。

その後、今回の「おおさかカンヴァス2016」とこれまでの7年間の「おおさかカンヴァス」全体をふり返って、お話を聞かせていただきました。

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ーーー今年の作品の感想を聞かせてください。

今年の「おおさかカンヴァス」はなんと言っても場所が特徴的で、「太陽の塔」の前に作品を置ける機会というのは作家にとって光栄ではあるけれど、やはり「太陽の塔」の存在の大きさがあるので、応募する側としては楽しみであると同時に、悩ましくもあるだろうなと最初の段階で思っていました。

太陽の塔は全長70メートルの巨大な彫刻の作品でもあるし、時代背景について非常に複雑なコンテキストを含んでいますので、ラスボスと言えるぐらい強敵で、それにどう挑むかという難しさを感じていました。

一方であらゆる戦いを挑むことができる存在でもあるので、公募の結果が楽しみでした。正直なところ、審査の段階では、太陽の塔とまともに対峙できる作品は現実的には難しいだろうと思っていたのですが、結果として、世代も幅広く、表現のバリエーションも多様で、いろんなタイプの作品が選定され、想像を越えた作品が実現したと思います。


ーーー今回の作品は、太陽の塔とどう対峙できていたと思われますか。

おおさかカンヴァスはこれまで街中を利用することが多かったのですが、今回は広々とした公園が舞台となったため、<作品単体で捉えるのではなく、空間をどう占有できるか>をそれぞれの作家が頑張っていたと思います。

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おおさか福笑い」は高校生のアイデアではあったけれど、最終的には完成度が高く、実際に顔のパーツが浮遊しているところを見た瞬間、太陽の塔が霞むぐらいのインパクトを感じました。またバルーンをただ浮かべるだけでなく、お客さんが参加できる仕組みを考えているところに、高さを活かしたダイナミズムを体現していて感心しました。

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太陽の根っ子のカブリくち」は、プランの段階では、いくらたくさん作品を並べても太陽の塔の前では難しいのでは…と思っていましたが、実際に作品を見てみると、一点一点の完成度の高さは驚くべきものがありました。

太陽の塔に挑戦するためにはたくさんの作品を持ち込まなくては、という作家の意図があったのだと思いますが、想像以上のクオリティでインスタレーションが展開されていて、芝生広場全体にその世界観が広がるような展示になっています。そのクオリティと作品の量には感心すべきものがありました。

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ちびがっつさんの「太陽の人」は造形で見せる他の作品のアプローチとまったく違う、文字通り、生身で太陽の塔に対峙するパフォーマンスを体現しています。

秋の気温の下がっている状態でさえもほぼ裸に近い状態で立ち続ける有様はまるで修行僧のようであり、自分の命を捧げるぐらいの迫力で表現行為を行う覚悟がみなぎっています。ちびがっつという非常にミニマムな名前ながらも、巨大な太陽の塔を凌駕するぐらいの生命体の存在感を見せつけられたなと思います。

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Yottaの「穀(たなつ)」は今回の公募のコンセプトや、岡本太郎、太陽の塔にまつわるコンテキストを深く読み込んでおり、なおかつポン菓子機という驚くべき機能を持った機械を作品に搭載するなど、作品のクオリティや精度が非常に高いものとなっています。また、ポン菓子をたくさんの人が手に入れて、口に入れて楽しむことができるというパフォーマンス的な要素も含めて、短期間でここまで質の高い作品に仕上げたというのは、作家のたくましいエネルギーを強く感じました。

太陽の塔に向けてポン菓子を発射する行為によって、彼らがコンセプトのひとつの要素として表現している不穏な時代の空気を感じさせつつ、その空気を切り開くようなポジティブなエネルギーをも同時に発信しており、非常に好感が持てました。

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KALEIDO-SC@PE(カレイドスケープ)」は非常に単純な構造でありながら、実際に体験してみると世界をひっくり返すほどの体感を得ることができる作品です。

太陽の塔のカラーリングも取り入れ、この場所でしか感じることができない太陽の塔とのシンクロを演出していて、重量物を人力でシンプルに回転させるという機構の巧みさを含めて、完成度の高い作品に仕上がっています。万華鏡という誰もが楽しめるものを巨大化するという発想と、太陽の塔に万華鏡を向けることで生みだされる融和性が見事な調和を創造していました。

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種の「○△□の神話」は、太陽の塔に向かう入口である万博記念公園駅に展示されている見事な絵画作品です。この作品は、岡本太郎さんの描いた「明日の神話」という巨大壁画をモチーフに描かれているのですが、その壁画の単なるパロディとして作品化するのではなく、岡本太郎さん自身や、「明日の神話」が描かれた時代背景、渋谷駅構内に展示されるまでの経緯など含め、相当深く読み込んだうえで作品が構成されており、歴史の読み取りと文脈の組み上げ方が高校生のグループとは思えない巧みさがありました。

グループ制作ではどうしても民主主義的でフラットな作品に仕上がりがちですが、100人以上の高校生たちが描いたアイコンを織り交ぜながら、ひとつの統一された絵画表現として完成させていて、見るものを感動させる力があると思います。巨大な画面の隅々まで目が行き届いており、宝探しゲームのように絵画を楽しめるほど豊かなモチーフ表現を取り入れ、独創的にレイヤーを重ねながら絵画的深みを生み出していて、我々から見ても舌を巻く見事な作品です。

公園に入る前のアプローチとしての存在価値も高く、この作品はモノレール駅に常設展示されてもおかしくないぐらいのものになったと思います。

点数は少ないですが、全体的に見て、それぞれのクオリティも高いし、屋外展示にもかかわらず物質的な質量も遜色のないものになっていました。公募展の結果とは思えないような統一感のある展示ができたのは、太陽の塔という巨大なモニュメントがモチーフとなっているからこそ豊かな調和を生んだ展覧会になりえたのかなと思います。場所の持つポテンシャルを最大限に引き延ばすことができたのではないでしょうか。


ーーーこれまで7年間のおおさかカンヴァスを振り返って、アーティスト側にとってどんな意味があったとお考えでしょうか。

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「おおさかカンヴァス」の第一回目が何の因果なのか大きな震災に重なりました。レセプションの日の前日に東日本大震災が起こり、レセプションもキャンセルになって、アーティストも混乱していました。

象徴的なのは美術作家の加藤翼さんが、大勢の人の力を合わせて巨大な構造物を引き倒すという作品のパフォーマンスについて悩んでいたことです。被災地の状況を伝えるメディアから繰り返し流され続ける、破壊された建物などの映像と、巨大な箱を引き倒して壊すという自分の作品行為のビジュアルがあまりにも似ているため、パフォーマンスを実施していいのか結論を出せずにいたのです(震災の起こった翌日がパフォーマンス実施日にあたっていた)。最終的には、構造物を引き倒すのではなく、力を合わせて“引き起こす”作品というアイデアに転化していきました。加藤さんはその後もずっと、引き起こす作品をつくり続けることになります。

現実の壮絶な出来事によって、自分の表現行為も変化せざるをえないという状況が「おおさかカンヴァス」第一回目に起きて、そこである意味<アートとはいったい何なのか?>という問いを突きつけられたわけです。美術のための美術をつくっていた人たちにとってみると、自分たちの価値観の底が抜けてしまったような、いったい何のために自分はものをつくって表現しているんだろうという問いを、改めて考えざるをえないことが起こったと思っています。芸術がただの自己表現で終わるものではなく、世の中にどんなかたちで存在しうるものなのか、大きい視点から考えざるをえない環境が「おおさかカンヴァス」が始まった起点の中に潜んでいたのではないかと思うのです。

街中に作品を置くということは、美術の文脈や歴史の中で作品が読み解かれるのではなく、そういうことを知らない人でも享受することができるわけですから、それを自分たちの文化として読み込み、そして自分たちの生活の中で作品がどう作用するのかということを、考え、つなげていかなくてはいけない存在であるということを、改めてアーティストは問われたのではないかと思っています。

「おおさかカンヴァス」の記録を振り返っても、そういうものに応えうるような作家や作品が選ばれている印象があり、そういう作品が場所のポテンシャルを開示し、都市の可能性を開いてきたのだと思います。アートという先行者によってまちが開かれたからこそ、例えば、何もなかった埋立地で「おおさかカンヴァス」が開催された翌年に「劇団 維新派」の公演が実現し、さらにその翌年には常設の商業施設である中之島漁港がオープンするなど、アートによる都市の再生につながる事例が生まれたのだと思います。

「おおさかカンヴァス」は作品が狭い世界に閉じこもるのではなく、まちの可能性を開く役割をアートが担うという、ある種のアートの使命を明確にするコンペになっていったと強く思っています。震災がきっかけとなって、ものごとの大きな価値観がひっくり返り、改めて目の前の現実から何をすべきかを問い直されている状況に対して敏感に反応しているコンペティションになったという意味では、「おおさかカンヴァス」はほかの制度化された展覧会や芸術祭とは一線を画す、都市の潜在能力に対して「どう戦えるのか」という命題を与えられた芸術家たちの記録になったのでは、と思います。


ーーー震災というものがアーティストにとって大きかったのですね。

それは僕の視点だと思いますが、震災によって、美術の狭い世界の中だけで作品をつくっている者からすれば、自分の作る作品が“美術のための美術”ではなくて、パブリックが必要とする存在であるべきではないのか、ということを改めて考えさせられたと思うのです。

つまり、作品が人の心を動かしたり、あるいは都市の機能に変化をもたらしたり、<多くの人や社会に向けて、可能性の扉を開くような存在でなくてはならない>ということを問われているのではないか、ということです。「おおさかカンヴァス」をふり返って思うのは、社会の扉を開くというのは、とてつもないエネルギーやインパクトが必要で、それを小難しい美術の文脈で御託を並べるよりも、もっとストレートで誰にでも届くような表現を選択することが非常に有効であり、今までの美術家のプライドを投げ捨てて挑んでいける作品のほうが結果的に強いということを思い知らされました。

「おおさかカンヴァス」は、強いアイデアを具体化できる仕組みを持ったコンペです。つまり美術表現の専門家でない人がフレッシュなアイデアを、アートマネージャーや行政のサポートを受けて、きちんとした具体的な作品として実現することができます。さらに、それが多くの人に評価されて、まちの可能性を開いていくような結果をも生み出しているということにおいて、今までにないアートの価値観を発見、発掘し、同時に新しい概念を発明したプロジェクトになったと思います。

美術というカテゴリーの狭い領域の中で、内向きに発信されていたものの限界を突きつけられ、僕自身も歪んだ状況の中で限界を感じているし、それを今の時代が受け止めることができない現状も感じていますが、「おおさかカンヴァス」はそれにいち早く敏感に反応してきました。一見、一発ギャグ的にとらえられたり、美術ではないというふうに思われたりするけれど、「じゃあ美術とは何なんだ」と、逆に鋭く突きつけている文化事業なのだと思います。